むことを決定したのです。

戦後、日本は急速な経済復興による関西の電力不足が社会問題になっていました。そこで、関西電力は、豊富な水量と大きな落差から水力発電の適地とされながら、厳しい自然条件によりダム建設を阻んできた黒部川に、”くろよん”建設工事を挑
昭和31(1956)年6月、黒部川第四水力発電所建設事務所が開設され、8月、まず北大町専用停車場からの資材輸送路「大町ルート」工事に着工。大町トンネル(現関電トンネル)大町側から掘削が開始しました。
大町トンネル(現関電トンネル)の開通は、“くろよん”建設で最大の難工事でした。掘削が始まったものの、翌年5月に破砕帯と激突し暗礁に乗り上げたように思われました。しかし、全ての知識と経験を結集し、距離わずか80mの破砕帯を7ヶ月の苦闘の末突破したのです。その様は石原裕次郎主演の映画『黒部の太陽』に描かれ、今に伝えられています。
昭和38(1963)年6月、黒四建設工事の竣工式を迎えました。7年の歳月と513億円の工費(当時)、延べ1千万円の人手、171名の尊い犠牲により完成。その後、ダムは本来の目的であった関西への電力供給を始め、日本の経済成長を助けたのでありました。